幼少の頃、「よくある習い事」の一環で、ピアノを習っていた。
最近では、「英会話」や「スイミング」、「バレエ」のほうが人気なのかもしれないが、我々世代では、小学校特に低学年では、女の子は「とりあえずピアノ」人口がとても高かった記憶がある。
当時はまだ教材もそんなに開発されていなくて、周囲の子みーんな同じだった。とりあえず「バイエル」から入って、バイエルが終われば「ツェルニー」をやる。しかもツェルニーは1冊ではない。100番、30番、40番…と続く。(確か、50番もあったかと記憶しているが、そんな全部やるのだろうか?)
そして、ピアノを習っていた当時の苦行ともいえるものが「毎日1時間の練習」だった。母親が、「ピアノの練習をまずしなさい!それが終わらないと遊びに行っちゃだめ!」というのだ。つまり、60分の「ピアノ(の練習)」という試練が毎日待ち受けている。夏休みや年末など、祖父母の家に行くときだけは、祖父母宅にはピアノが無かったので練習が免除となる。それが嬉しかった(爆)。
いや、最初から練習が嫌いだったわけではない。そもそも、ピアノやりたい、と言ったのは自分からなようだ。まあ、子どもは音が出て楽しそうだったらやりたくなるでしょう。ひょっとしたら、最初に見たのがギターだったら、今頃はギターをベシベシやっていたかもしれない。
誰しもそうだと思うけれど、「0」が「1」になる瞬間は苦しくも楽しいし、嬉しい。なので、「ドレミファが片手でも弾けた」とか、「両手で曲が弾けた」とか、誰しも知っている曲がそれなりにできるようになれば、満足感、達成感が得られる。これが、バイエル終了くらいまで。その後、「2」を「3」にしたり、「4」を「5」にするのは、地味な努力になるし、自分としても達成感や満足感が得られにくい。それに、当時は「みんなほぼ同じ教本」ということもあって、周囲と比べがちだ。同じ小学校入学時にバイエルを始めたとしても、進度が早く、かつそれなりに才能があって適応能力が高い子だと、サクサク進んで1年位でバイエル全曲弾いてしまうだろう。そんな中、「自分はまだバイエルが終わらない」とか「●●の曲が弾けない(弾かしてもらえない)」となったら、なんだか子どもであっても卑屈になってしまう。
もう一つ理由があって、私自身はバイエルまではよかったが、その後の「ツェルニー」が大嫌いだった。練習曲(エチュード)、というものが生理的に嫌いなんだと気づいたのは大人になってからだが、ツェルニーの古典様式が好きじゃないのだ。そもそも「練習曲」ってなんやねん、「練習は練習、曲は曲」やろ、と今でも毒づきたくなる(苦笑)。そのツェルニーが100から始まり、なんだかんだで40番のどっかまで行った時点で私は高校生になり、「大学受験」を口実にピアノのレッスンを止めることに成功した(苦笑)。
ツェルニーではない、別の教材を相手にしていれば、私のピアノ人生もちょっとは変わっていたかもしれない。でも、今でも多くのピアニストが愛好する「ショパン」を弾きたいか、というとノーだし、ピアノを再開したいとはついぞ思ったことがない。勿論、弾けないよりは弾けるほうがいろんな場面で便利なのだろうけれど、今の自分には「持ち運びできる楽器」のほうが性に合っているようだ。
ただ、4歳過ぎから12年以上鍵盤楽器の世界にいたので、「音楽」の世界ー和声であったり、旋律感、転調や移調、オーケストレーションのそれぞれのパートの意味合いなどは掴みやすい。あとは音感か。だから、幼少時のピアノ経験は決して無駄ではなく、有り難い部分も多分にあったんだ、と今では思っている。
ちなみに、親の転勤などもあっていろんな先生に師事したのだが、そのうちの一人の方は、今現代音楽作曲家になってかなり活躍されているようだ。